■■ 「治せる時代」に忍び寄る経済的苦境
日本はがん治療の分野で目覚ましい進歩を遂げてきた。免疫チェックポイント阻害剤や分子標的薬など革新的な新薬が次々と登場し、かつては「不治の病」とされたがんでも、長期生存や完全寛解が現実のものとなりつつある。2023年の国立がん研究センターの統計によれば、がんの5年相対生存率は全部位で60%を超え、着実に改善の傾向を示している。
しかし「治せる時代」の到来は、同時に別の課題を浮かび上がらせた。治療が長期化・高度化するにつれ、患者が負担する医療費も急増しているのである。月に数十万円もの治療費がかかるケースは珍しくなく、働き盛りの世代が職を失いながら治療を続けなければならない現実もある。
こうした経済的負担に対するセーフティネットとして機能しているのが「高額療養費制度」だ。しかしこの制度には、現代のがん治療の実情と乖離した多くの課題が存在する。本稿では、がん患者やその家族の声を通じて、高額療養費制度の課題と経済的負担の実態を深く掘り下げ、制度改善への提言を行う。
■■ 第1章 高額療養費制度とは何か――制度の概要と意義
● 1-1 制度の基本的な仕組み
高額療養費制度は、1973年(昭和48年)に創設された医療費の自己負担額を軽減するための制度である。同一月内(1日から末日)に医療機関や薬局の窓口で支払った医療費が、一定の上限額(自己負担限度額)を超えた場合に、その超過分を健康保険から払い戻す仕組みだ。
自己負担限度額は、加入者の年齢(70歳未満・70歳以上)と所得水準によって細かく区分されている。70歳未満の場合、所得区分は「年収約1,160万円以上」「年収約770万円〜1,160万円」「年収約370万円〜770万円」「年収約156万円〜370万円」「住民税非課税者」の5区分に分かれており、それぞれ上限額が異なる。
【参考:標準的な収入(年収約370万円〜770万円)の場合の計算式】
自己負担限度額 = 80,100円 +(総医療費 − 267,000円)× 1%
例)総医療費が100万円の場合:80,100円 +(1,000,000円 − 267,000円)× 1% = 87,430円
また、同一世帯で過去12カ月以内に3回以上高額療養費の支給を受けた場合、4回目以降は「多数回該当」として自己負担限度額がさらに引き下げられる(同区分の場合は44,400円)。
● 1-2 制度が果たしてきた役割
この制度は日本の国民皆保険制度を支える重要な柱として、半世紀にわたって多くの患者を経済的困窮から救ってきた。急性疾患や手術などの場合、高額な医療費が一時的に発生しても、自己負担限度額があることで治療を断念せずに済む患者が多く存在する。
特にがん治療の領域では、入院・手術・抗がん剤治療など多岐にわたる高額な治療が重なるため、制度の恩恵を受ける割合が高い。厚生労働省の調査によれば、高額療養費の受給者の中でもがん患者が占める割合は極めて高く、制度ががん患者支援において中心的な役割を果たしてきたことがわかる。
■■ 第2章 制度の「盲点」――カバーされない費用の実態
● 2-1 保険適用外の費用は対象外
高額療養費制度の最大の課題のひとつが、健康保険の適用外となる費用には制度が適用されない点だ。現代のがん治療では、保険適用外の費用が想像以上に大きな割合を占める。
まず「先進医療」と呼ばれる治療法は、有効性・安全性の評価が終わるまでの間、保険診療と混合して行うことができるが、先進医療部分の費用は全額自己負担となる。重粒子線治療や陽子線治療などは1回の治療で数百万円に及ぶことも珍しくない。
次に「自由診療」の問題がある。標準治療が奏効しなくなった患者が、免疫療法やゲノム医療など保険未承認の治療に望みをかける場合、全費用が自己負担となり、高額療養費制度の対象にならない。月に数百万円の費用がかかるケースも存在し、財産を使い果たしてしまう患者も後を絶たない。
【Aさん(50代・乳がん)の声】
「術後の補助療法として保険が適用された抗がん剤が効かなくなり、主治医から別の選択肢として自由診療の免疫細胞療法を勧められました。月に80万円かかると言われ、高額療養費は使えないと知った時は頭が真っ白になりました。娘の大学進学費用を取り崩しながら治療を続けましたが、半年で断念せざるを得なかった。あの選択が正しかったのかどうか、今でも考えてしまいます」
● 2-2 差額ベッド代・食事代は対象外
入院中に発生する費用のうち、差額ベッド代(特別療養環境室料)と入院時の食事代は高額療養費制度の対象外である。がん治療では長期入院が必要なケースも多く、これらの費用が積み重なると大きな負担となる。
差額ベッド代は病院や部屋のタイプによって大きく異なるが、1日あたり数千円から数万円に及ぶものもある。入院日数が長くなるほど、その差は無視できない金額になる。入院中の食事代は現在1食あたり460円(一部負担)となっており、長期入院ではこれも相当額になる。
● 2-3 交通費・宿泊費・介護費用の問題
通院に要する交通費も制度の対象外だ。専門の医療機関が遠方にしかない場合、毎回の新幹線や飛行機の費用が家計に重くのしかかる。特に地方在住の患者にとって、治療のたびに都市部の大病院へ通う負担は計り知れない。
また、患者本人が就労できなくなることで世帯収入が低下する一方、介護が必要になれば介護費用も発生する。これらの間接的な経済負担は制度の枠外にあり、トータルの経済的打撃は医療費だけでは測れない。
【Bさん(40代・大腸がん・地方在住)の声】
「地元の病院では対応できないと言われ、新幹線で片道2時間の大学病院に3週間おきに通っています。交通費だけで毎月3万円以上かかる。高額療養費のおかげで医療費の窓口負担は抑えられているのですが、トータルで見ると家計はギリギリです。妻も私の付き添いで仕事を何日も休んでいるので、実質的な損失はもっと大きい」
■■ 第3章 「立替払い」の壁――一時的な資金不足という現実
● 3-1 窓口負担の一時払いが難しい
高額療養費制度は原則として「事後的な払い戻し」方式で機能している。患者がまず窓口で全額(または3割)を支払い、後日申請することで超過分が払い戻される仕組みだ。しかし問題は、払い戻しまでに時間がかかること、そして一時的に高額な立替払いが必要になる点にある。
払い戻しには申請から通常2〜3カ月程度かかる。その間、患者は自己負担分を手持ち資金から捻出しなければならない。特に就労不能になっていたり、預貯金が少ない家庭では、これが大きな障壁となる。
この問題に対応するために「限度額適用認定証」制度が設けられており、事前に申請することで窓口での支払いを自己負担限度額まで抑えることができる。しかし認定証の存在を知らない患者も多く、また申請手続きの煩雑さから活用できていないケースもある。
● 3-2 「月をまたぐ」と限度額がリセットされる問題
高額療養費制度の自己負担限度額は「1カ月(月初から月末)」単位で計算される。この「月ごと」の区切りは、治療の実態とミスマッチを生むことがある。
例えば、月をまたいで入院した場合、それぞれの月で別々に自己負担限度額が適用されるため、同じ治療に対して2カ月分の限度額を負担しなければならない。緊急入院や手術が月末近くに行われた場合、わずかな日数の違いで自己負担額が大きく変わるという不合理も生じている。
【Cさん(60代・胃がん)の家族の声】
「父が月末に緊急手術を受け、手術は月末、術後は翌月に入りました。病院の窓口で請求書を見た時に驚きました。月をまたいだため、2カ月分の自己負担限度額が合算されず、それぞれで計算されたのです。1カ月入院するのと実質変わらない処置でも、費用は倍近くになった。この仕組みは素人にはわかりにくい」
● 3-3 多数回該当の「12カ月リセット」問題
同じ世帯で12カ月以内に3回以上高額療養費が支給された場合、4回目以降は「多数回該当」として自己負担限度額がさらに引き下げられる。これはがん患者にとって重要な救済措置だが、12カ月ごとにこのカウントがリセットされてしまうという問題がある。
長期にわたってがんと闘う患者にとって、12カ月後に突然限度額が元に戻るのは大きな打撃だ。治療が2年、3年と続く場合、1年に1度は多数回該当でない月の高額な負担が発生するリセットサイクルが繰り返される。
■■ 第4章 所得区分の不合理――実態と乖離した制度設計
● 4-1 がん罹患後に収入が激減しても区分が変わらない
高額療養費の自己負担限度額を決める所得区分は、原則として前年度の所得に基づいて決まる。しかしがんと診断されて就労困難になった場合、診断後に収入が激減しても、すぐに所得区分が変更されるわけではない。
例えば高所得者区分の自己負担限度額は月20万円以上に達することもある。がん診断前は高収入だった人が、治療のために仕事を辞めたり大幅に収入が減少したりしても、年度が変わるまで高い限度額を負担し続ける必要があるケースが生じる。
● 4-2 「年収の壁」前後で大きく変わる負担
所得区分の境界線付近にいる患者にとって、わずかな収入の差が自己負担限度額に大きな影響を与えることがある。例えば年収370万円前後の境界では、区分が一つ変わるだけで月々の自己負担限度額が数万円単位で変わる。
この「崖」の問題は、特にパートや自営業など収入が一定でない人々に深刻な影響を与える。また、配偶者の収入と合算される場合など、世帯全体の所得の捉え方によって有利・不利が生じることもあり、制度の公平性に疑問の声が上がっている。
【Dさん(50代・膵がん・元自営業)の声】
「がんがわかった年は事業がそれなりに好調で、所得が高い区分に入っていました。でも治療に専念するために廃業を決めた。翌年からは収入がほぼゼロになったのに、その年はずっと高い限度額のまま治療を続けることになった。制度の仕組みはわかりますが、現実には追いついていない。もう少し柔軟な対応があったらと思わずにはいられません」
■■ 第5章 新薬・高額薬剤が生む新たな格差
● 5-1 保険収載された高額薬剤の普及
近年、がん治療における分子標的薬や免疫チェックポイント阻害剤は劇的な効果をあげる一方で、非常に高額であることでも知られている。これらの薬剤が保険適用になったことで高額療養費制度の対象となり、患者の自己負担は抑えられるようになった。しかしその裏側で、新たな課題も生まれている。
保険適用になった高額薬剤は高額療養費制度で自己負担限度額が適用されるものの、月々の自己負担額がその限度額近くに張り付く状態が長期間続く。月8万〜9万円程度の自己負担が毎月発生し続ける状況は、年間で100万円前後の出費となる。多数回該当になっても4〜5万円台の負担が毎月続くことに変わりはなく、これが年単位で積み重なると莫大な額になる。
● 5-2 治験・未承認薬へのアクセスの経済格差
保険未承認の薬剤や治療法へのアクセスは、患者の経済力に大きく左右される。国内未承認の薬剤を個人輸入したり、海外で治療を受けたりする選択肢は、裕福な患者にしか現実的ではない。
また、治験(臨床試験)に参加することで無償で最新治療を受けられる場合もあるが、治験実施施設が限られており、特に地方在住の患者には参加のハードルが高い。通院のための交通費や宿泊費、仕事の調整など、見えないコストも大きい。
【参考データ:がん治療における経済的負担の実態】
- がん患者の約30〜40%が治療に伴い経済的な問題を経験(各種調査より)
- 治療のために離職・転職を経験した患者は約30%前後(NPO法人調査)
- がん患者世帯の貯蓄の取り崩しは平均で年間100万円超に及ぶケースも
- 高額療養費申請を知らなかった患者は受給資格者の一定割合を占める
- 医療費以外の間接費用(交通費・介護費・休業損失)は医療費を上回ることも
■■ 第6章 「がん貧困」という現実――社会的影響
● 6-1 治療関連費用による生活破綻
がん治療による経済的負担が積み重なり、生活が立ち行かなくなる「がん貧困」とも呼ぶべき状況が一部の患者・家族に生じている。預貯金を使い果たし、住宅ローンの支払いが困難になったり、子どもの教育費を削ったりせざるを得なくなるケースも報告されている。
特に深刻なのは、がんに罹患した親を持つ子どもへの影響だ。教育費の削減や、家族全体の生活水準の低下が、子どもの将来の機会を奪う「経済的連鎖」を生み出す可能性がある。
● 6-2 経済的理由による治療断念・縮小
最も憂慮すべき問題は、経済的理由から治療を断念したり、主治医の推奨する治療よりも安価な選択肢に変更せざるを得ない患者が存在することだ。医療的に最善の選択が、経済的な理由から選べない状況は、医療の本来の目的と相反する。
NPO法人や患者支援団体への相談の中には、「高額療養費の限度額を払い続けることができなくなった」「副作用への対応薬を減らした」「次のサイクルの治療を先延ばしにした」といった声が数多く寄せられている。
【Eさん(30代・白血病・妻の立場から)の声】
「夫が白血病と診断されたのは、住宅ローンを組んで家を買った翌年でした。治療費は高額療養費でカバーできる部分もありましたが、夫が働けなくなり収入がなくなった。私のパート収入だけでは、ローンと生活費と医療費の三重苦でした。ソーシャルワーカーさんに相談してやっと傷病手当金や生活保護の相談ができましたが、もっと早く、診断直後から経済的なサポートを受ける窓口があればよかったと思います」
● 6-3 精神的健康への影響
経済的負担は、がん患者の精神的健康にも大きな影響を与える。「お金のことが心配で治療に集中できない」「家族に迷惑をかけているという罪悪感で眠れない」といった声は多い。経済的ストレスは免疫機能にも悪影響を与えうるとする研究もあり、経済的問題は医療的問題と切り離せない関係にある。
■■ 第7章 支援の現場から見えてくるもの――ソーシャルワーカーの視点
● 7-1 情報の非対称性という問題
病院のメディカルソーシャルワーカー(MSW)が患者相談で繰り返し直面する問題のひとつが「情報の非対称性」だ。がん患者が利用できる公的支援制度は高額療養費制度以外にも多数存在する。傷病手当金、障害年金、障害者手帳、各自治体の医療費助成制度、民間の患者支援基金など、制度を知っているかどうかだけで経済的状況が大きく変わる。
しかし医師や看護師が経済的支援制度を詳しく説明する時間は限られており、患者が自ら調べて申請しなければならないケースが多い。病気によって体力・気力が低下している中で、複雑な制度を理解し、書類を揃えて申請するのは容易ではない。
● 7-2 MSWへのアクセス格差
MSWへの相談が経済的困窮の解決に有効であることは広く認識されているが、MSWの配置状況は病院によって大きく異なる。大規模ながん拠点病院ではMSWが複数配置されていることが多いが、地域のクリニックや中小病院では相談窓口が存在しないこともある。
また、MSWがいることを知らない患者も多く、医師や看護師からの積極的な案内がなければ、相談に至らないケースも少なくない。がん診断直後から経済的支援の情報提供を行う体制づくりが求められている。
■■ 第8章 制度改善への提言――患者の声を政策に
● 8-1 対象範囲の拡大
高額療養費制度の抜本的な改善として最も求められるのは、対象範囲の拡大だ。具体的には以下の方向性が考えられる。
・ 先進医療・自由診療との合算:
保険診療と組み合わせて受ける先進医療や、一定の医学的根拠がある自由診療については、保険診療費と合算して高額療養費を計算できるよう制度を見直す。
・ 付帯費用の一部算入:
差額ベッド代や通院交通費の一部を対象経費として認める検討を行う。
・ 年単位の合算制度:
月単位だけでなく、年間を通じた合算払い戻し制度の創設を検討する。
● 8-2 申請手続きの抜本的簡素化
現行の申請手続きは依然として煩雑であり、体調が優れない患者にとって大きな負担となっている。マイナンバーと医療情報の連携をさらに進め、申請なしで自動的に払い戻しが行われる仕組みへの移行を加速すべきだ。限度額適用認定証についても、マイナ保険証との統合により事前申請が不要になる流れを早急に全国展開することが求められる。
● 8-3 罹患後の所得変動に対応した柔軟な区分見直し
がん診断や重大疾病の診断を受けた場合に限り、速やかに所得区分の見直しができる「緊急変更申請制度」を設けることが有効だ。前年度所得ではなく、直近3カ月の実収入を基準に区分を設定できる仕組みを導入すれば、罹患直後に収入が激減した患者の救済につながる。
● 8-4 「多数回該当」の恒久化・長期継続への対応
長期的ながん治療を行う患者については、12カ月でリセットされる多数回該当の仕組みを見直し、一定の継続期間以上の治療者には恒久的に低い限度額を適用する制度改正を検討すべきだ。慢性疾患化した長期がん患者の実態に即した制度設計が急務である。
● 8-5 経済的支援情報の「標準化」
すべてのがん診断患者に対して、診断から一定期間内にMSWや経済的支援コーディネーターとの面談が行われるよう、診療報酬上の評価を設けるなど制度的な後押しが必要だ。また、患者向けの経済的支援情報をまとめた「経済支援ガイドブック」を標準化し、全国どこの医療機関でも配布される体制を整えることが求められる。
■■ おわりに――「治せる時代」を「支えられる時代」に
高額療養費制度は、日本の医療保障体制の根幹をなす重要な制度であり、これまで数多くのがん患者を支えてきた。しかし半世紀以上前に設計された制度の基本的な枠組みは、劇的に変化した現代のがん治療の実態に追いついていない部分が多い。
がん患者の声に真摯に耳を傾けると、そこには制度の隙間に落ち込んだ「見えない苦労」が見えてくる。保険適用外の費用、月をまたいだ計算の不合理、立替払いの難しさ、所得区分の硬直性、情報へのアクセス格差――これらはいずれも、制度設計の「見直し」で改善できる問題だ。
「治せる時代」にがんと診断されたことは、かつてよりも希望がある。その希望を現実のものにするためには、「支えられる時代」でもあることが不可欠だ。経済的な不安から治療を断念する患者がひとりでもいる限り、日本の医療保障制度は完成したとは言えない。
患者・家族・医療者・制度設計者が一体となり、高額療養費制度をはじめとする経済的支援の枠組みを現代の医療実態に合わせてアップデートしていくことが、今まさに求められている。
本稿は患者支援の観点から制度課題を分析したものです。個別の医療・法律・税務相談については専門家にご相談ください。










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